いつもご訪問頂いている関西にお住いのマイレビュアーさんから、「趣味食」としての蕎麦についてのご質問が有った。
この際、私が拙い知識の内でまとめた、独自の発展を遂げた「江戸前蕎麦」に対する考察を、何回かに分けて述べていきたいと思う。
東京の蕎麦屋は居酒屋では無いかと言う意見を度々耳にするが、それも尤もな話である。
これは蕎麦屋というものが、元々地方と東京ではその役割が異なり、それは江戸時代から続く食習慣の違いに起因する。
蕎麦は米や麦が満足に穫れない痩せた土地でも収穫できるため、地方の特に信州や東北、山陰や四国・九州の山間部では、昔から重要な主食として扱われていた。
しかし江戸の市中においては、いささか事情が異なった。
天下泰平の世が続く中、都市部に住まう江戸っ子の主食はあくまでも白米であったもの。
そんな都会で最初は雑穀のひとつとして見做されていた蕎麦であったが、食生活にゆとりが生まれるにつれ、その瀟洒な味わいは江戸の風流人の目に留まり、歓迎されるところとなる。
江戸時代も末期になると、蕎麦は食事の手段では無く、一種の嗜好品として扱われ、「趣味食」という色合いを見せて来る。
秋口の新蕎麦の香りを愛でることに加え、季節感を盛り込む「種物」が次々と誕生したり、外側と中心では特性が異なるその実を挽き分けて打つことや、それに色や香りを添える「変わり蕎麦」の手法も編み出された。
一方大店の旦那衆や粋人の間で、蕎麦を酒を呑む風習が生まれたのも、当然の成り行きであった。
それが庶民にまで広まり、元々居酒屋と言う特定の業種が存在しなかった当時は、'酒を呑むなら蕎麦屋に行け'と言われ、蕎麦屋がその役割を果たすこととなる。
独り者の職人が多かった江戸の町では、仕事帰りに蕎麦屋に寄って簡単な肴で一杯やって蕎麦を手繰るのが、彼らの楽しみのひとつであった。
そのため蕎麦屋は「江戸四大料理」の中でも、天然ものしか無かったため、昔から高級料理であった鰻屋に注ぐ地位に在り、屋台売りが中心で腐りやすい生物を扱う、天婦羅屋や鮨屋よりも格は高かった。
こと蕎麦に関しては、米の代用食のような野暮ったいイメージは無く、また形状が似ているため並んで語られることの多いうどんに対して「患っためめず」と蔑んだ話も有るように、端から腹ふさぎの手段だったうどんよりも、蕎麦は格上の存在であった。
現在でも東京の老舗蕎麦処で盛りが少ないのは、そういった歴史的な背景が有り、'蕎麦屋で満腹になるなど無粋'という価値観は、現在でも東京人の気質の中に受け継がれている。