『食べコラム30「築地移転狂騒曲」』ランチ向上委員会さんの日記

絶望を退ける勇気を持て

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ランチ向上委員会 (男性・神奈川県) 認証済

日記詳細

2018年10月6日に築地市場が閉場し、2018年10月11日に豊洲市場が開場した。
空白期間は、3連休を挟み、休場しているのはお正月の休みより短い。世間にはたいした影響は無く、ニュースでの出来事だと思っていたが、意外にそうでもないのが現実であった。ニュースにならない事実を食べログレビュアーならではの視点で記録しておこうと思う。

ニュースの前に背景としては、老朽化した築地を豊洲に移転するという話がある。移転に反対する仲卸が「築地ブランド」を盾に政治問題にした感があるが、市場の移転というものを一般人はどう考えているのであろうか?市場の移転は、青果市場が神田から大田に移転しているし、そもそも、築地も日本橋から移転している。神田の際も移転反対派はいたが、保守的な市場関係者のみで、これほどの社会問題にはならなかった。また、大田市場は広大な埋め立て地であるため、ここに築地も移転するという案もあったが、築地の関係者により実現しなかった。
私見だが、神田という築地以上に江戸の下町としての知名度の高い名称を冠した市場でも移転できたのにも関わらず、築地が問題となったのはそのブランド力だろう。
日本人は同調圧力に弱く、「築地=いいもの」という刷り込みがされている。更に「築地のいいものを食べる人=食通」という刷り込みがなされ、インターネット時代の現代では、これを流布する「自称食通」が発生する。自称食通は、築地を自身の背景とすることで、自分の価値を高めることを目的としており、築地を日常的に利用しているわけではない。
結果、流行に流される人、流行に乗って自分の価値を高めたい人によって、築地移転は否定されることになる。
問題の本質は、はやし立てる外野よりも、築地ブランドを利用して、不当に高い価格で海産物を取引して利益を上げている人たちであると考える。
なぜなら、移転後の市場の周辺を見ると、名店は残っている。日本橋の神茂は、いまだに日本橋の魚河岸ではんぺんなどの練り製品を販売している。築地に行かずして、ブランドを維持している。神田市場の周辺にも数は少なくなりつつも、いわゆる場外と呼ばれる関連業者の生き残りを確認できる。市場も無くなり、電気街も家電からアニメ・ゲームに主力が変化する中で、乾物屋や大衆食堂が散見できる。これらのお店が市場の名残であったことは若者は知らないであろう。
「本物は残り、偽物は淘汰される」これが市場に限らず真実だ。

本題のニュースだが、ちょうど、空白の5日間に宴会を催した。とんかつ わらしっ子という会社の近くの馴染みのお店だが、普段は、個室の確保のみをお願いしておき、人数はギリギリの連絡でも良いのだが、今回は、「築地が移転する前に仕入れたいので早く確定してくれ」と言われた。とんかつ店も築地を利用しているとは実に興味深い。
また、こじまは、持ち帰り専門の小さな寿司店だが、こちらは11日まで休みという大胆な休業に出た。こちらも築地からの仕入れだったと知ることとなった。
名店、動坂食堂は、足立市場からの仕入れなので、今回の騒動もなんのその、通常営業をしている。地元密着の名店は、仕入れも地元密着だ。

余談だが、築地は父の職場であった。「閉場を前に見に行きたいか?」と聞いたのだが、市場というものは永続的なものではないという理解があるようで、消えゆくものに未練はないとのこと。
消えゆく築地の豆知識をいくつか記録しておくと、
配管には水道水だけでなく、海水があり、東京湾からくみ上げた海水を市場内で浄化して利用している。これにより、活魚を保管しやすくなっている。
建物が扇側になっているのは、鉄道輸送していた頃の名残で、貨車を直線の線路に停車させるよりも曲線にしたほうが長くできるという知恵から生まれたもの。長崎を出た『とびうお号』は、鮮魚特急貨物列車で、夜間の東海道線を走り、朝の競りに間に合うように築地に到着します。遅れたときの荷下ろしは、乱暴だったとのことで、落とした荷物はそのまま線路わきに放置され、拾って食べてもOKだったとのこと。おおらかで、当時に時代を感じさせるエピソードだ。
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