『インドの衝撃と深くなる興味』matu4さんの日記

matu4

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あっ、インド行ってきました。衝撃でした。

しかも、コルコタや、ニューデリーやムンバイなどの大都市ではなく
100万人程度の小規模の田舎町。

ブッダガヤとヴァラナシ。

アジア各国をめぐって繰り返していた視察がついにある意味での究極系にたどり着いた瞬間でした。

チャイは屋台で素焼きの盃器で飲むのです。
飲むとその器を捨ててしまいます。
ずいぶんもったいない使い捨て。
これは自分より低位のカーストの
スードラや不可触賎民などと触れると穢れるという考え方がベースにあるのです。
昔から、ずーっと。

なるほど、だからナンやチャパティで包んで手で食べるんだとか
だから葉っぱで編んだ器がたくさんあるんだとか…理解も進みます。

不思議な感覚でとらわれたことはまだ他にもあります。

不可触賎民と言われる人々の異常な多さ、
そして浮かべる苦難の表情と異常なほどアグレッシブに迫ってくる物乞い行動。
その顔に苦難の表情以外の表情筋が全く発達していないほど板に付いた苦難の表情。
職業として物乞いが歴然と存在しているのです。
富の再分配をする側とされる側。

町を歩くと、顔のそばには土産物を売りつけようと手ぐすねを引いている人々。

腕を掴んで追いかけてくるのは乳児連れの物乞い。

足を止めて歩き出そうとすると、ズボンのすそを引っ張る
這いながら近づいてくる足の無い物乞いの人々。

「あー、あー」と声を上げながら
苦しそうに地獄にいるかのような表情でこちらを見つめています。

通訳を通じて聞いてみると、なんと「現世で苦しみの徳を積むことが
来世で生まれ変わった時に上の階級になって出てくるチャンスなのだから
「差別は止めよう」とか余計なことを言って、徳を積むチャンスを奪ってはならない。」
というのです。

救われない!

2500年以上前にインドのはずれで仏教が出てきた背景には
ヒンドゥー教の教義や、古くはバラモン教の教義にこういう
背景を持つ考え方が浸透しているからにほかなりません。

そして、低所得階級の多くの人の目に見える特徴的な表情。
鋭い眼光の中にも宿る悟りにも近い心理状態。

諦めるということは悟ることだと思います。
悟りとは自分の在り方を観てしっかりと分かること。
自分の人生の全体観をしっかりと見定めることに他なりません。

一生このカーストから抜け出ることが無いししないとわかっている
人に他の人と比べる心境は浮かんできませんし、
もっともっと向上したい。というある意味では貪欲な発想は浮かんできません。

チャンスがあるからこそ、貪欲さが生まれ
人と比べるからこそ、もっと良くなりたいと思うのかもしれません。

カースト。インドではそれほどまでに社会に根深く浸透しいているのです。
驚くほど深く、驚くほど長く、ずーっとずーっと昔から。
そしておそらくずーっとずーっと未来まで。

インドのカーストに無い階級の職業はITです。
階級が低くてもITさえできればカーストの原理から離脱できます。

新たな職業はカーストの社会に楔をうち始めているのかもしれません。
それでも、低いカーストの子たちが高い教育を受けて世界に羽ばたくのには
まだまだ多くのハードルがあるのです。

ユニセフはカーストに対してコメントを出しています。

【推定2億5,000万の人びとが、社会的に排除されたカースト(社会階級)の家に生まれたために、
差別を受けています。インドでは、1,500万人いる奴隷児童労働者の子どもたちの大多数が、
もっとも低いカースト出身者です。 】





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